スピッツ「水色の街」
3月30日の日記で、「水色の街」のことを書いたのだけれど、そのPVをネットで見つける(→http://streaming.yahoo.co.jp/bin/asx/micc1000700022/1000.asx)。
オリヴィエ・フォルラン『フランスの知識人とイタリア(1945-55)』
グルノーブル留学のときに授業に出ていたムッシュ・フォルランの本、Les intellectuels francais et l'Italie (1945-1955) : Médiation culturelle, engagements et représentations が最近出版されたので宣伝する。
フォルラン先生の授業はものすごく好きだった。話すスピードもそれほど速くなく、幾度かいったことを繰り返しながら、授業を進めてくれるので、フランス語が苦手なぼくも他の授業に比べて理解しやすかった。今では、1番前か2番目に座って受講していたぼくに相当配慮してくれていたのだと、勝手に解釈している。
この授業でもそうだったのけれど、歴史専攻の学生は、授業に出ていた印象では、大部分が白人で、白人以外の人はほとんど見当たらなかった。アジア系はどの授業でもぼく一人、本当に時々、黒人をみかける程度。アラブ系と白人のハーフっぽい人も一人いたような気もする。ぼくが受講した授業で、1人か2人程度、有色の人は全部でぼくを含めて3人くらいしか見かけなかった。同じ授業に出ていたやつに聞いてみると、留学生には他にケベコワーズとポロネがいたらしいが、見分けがつかなかった。
先生の授業では、発表することが課せられていたのだけれど、まだぼくにそんな実力はなく、「できません」と言いにいくと、やさしく了解してくれた。
先生は授業の際、ものすごく真剣に講義を進めていただけでなく、学生の発表にも熱心に耳を傾け、学生が先生の話を書き取るのと同じようにすさまじい勢いでメモし、学生の良い点、悪い点を指摘していらっしゃった。日本でこのような態度で授業に臨む人をぼくは見たことがなく、最初はちょっと衝撃を受けた。もちろん、この大学のほかの授業でもここまで熱心な人はいなかったのだけれど。
ある授業で、学生の発表中に、2人の女子生徒が無駄話をし始めた。それほど声は大きくなく、ぼくは横に座っていたのだけれど、うるさくは感じなかった。それでも先生は、まもなくして、眼の奥を真っ赤にし(ほんとにそのようにみえた)、怒鳴り始めた。「ここをどこだと思ってるんだ。大学だぞ。大学はあなた方のような人のためにあるのではない。それに、学生が時間を割いて真剣に発表しているというのに、あなた方の態度はなんだ。天気もいいし、しゃべるなら、教室から出て行きなさい。あなた方がいなくても全然問題ない」。1年以上も前のことで、フランス語にもそれほど自信もなく、彼へのよき思い出として、脚色されているところもあると思うけれど、大体こんなことを言ってキレた。
でも、一番の思い出は、以下。先生は、授業中によく簡単なクイズを出していたのだけれど、(「20世紀初頭に作られた王党派団体は?」とかそんな程度の)、アルジェリア戦争のところを扱っているときに、「ギ・モレ」と答えるべき質問を先生が出した。質問をすると、いつも誰か一瞬のうちに答えてしまうのだけれど、このときはたまたまわかるひとがいなかった。で、ぼくがはじめて答えた。「あなたがたはこんなこともわからないのか。日本人なら全員わかるぞ」と冗談を言って教室内を笑いに包んだ。
レベルの低い話で申し訳ないが、これを思い出すと、なんと言うか、勉強しなきゃなとやる気になってくる。
そういう先生の本が出た。買おう。
ジャック・シャルドンヌ『愛をめぐる随想 (新潮文庫)』
原題は、L'amour, c'est beaucoup plus que l'amour。『愛、それは愛以上のもの』となるか、もっと訳して『愛、それは愛よりはるかに豊かなもの』としてもいいかもしれない。この題の意味は、愛は、愛だけで存在するのではなくて、肉慾とか、悩みとか、年齢の問題とか様々なものが必ず付随してくるということのようだ(p.21)。
ジャック・シャルドンヌは1884年生まれと、後ろの解説に書いてあるが、この本の初版が何年に出版されたかどうかは書いていない。ウィキペディアで調べてみると、1937年から1957年にかけて書かれたものらしい。奥付にあるように、アルバン・ミシェルから1957年に出たのが初版ということでいいようだ。
体裁は、箴言を寄せ集めたもので、適当に抜き出してみると、たとえば、
……愛を生みなし、かつ保ってゆくものは、お互いどうしの些かの抵抗、本質に根ざす軽微な不協和にほかならない。だからこそ愛は、多くの場合、男女のあいだにしか存在しないのだ。…… (p.38)
とあるように、ヘテロセクシャルが彼の恋愛観の根幹である。この手の本によくあるように思われるが、著者は「男は・・・」だが、その一方で「女は・・・」という書き方をよくしていて、ほんまにそうなんかいな、と突っ込みを入れる箇所が多数見つけることができる。たとえば、
女は移ろい易いものだ。すくなくとも女は、変化というものにすばやく順応する。現に女は、いざ結婚となると、何から何まで棄ててしまうではないか?(p.47)
とか、
フランスの男性のいちじるしい特質は、まじめさということだ。彼は実生活のうえの安楽や利便を軽蔑し、ユーモアを殆どたしなまず、家庭を愛する。つまり、まじめなのである。これは世界じゅうで一ばんまじめな人間である。彼はひとりの妻を欲する。しかもそれは一あって二あるべからず、召使のようであっても困るし、さりとてまた、そんじょそこらの国でよく見かけるように、立派な教育のおかげ水臭いながらも保たれている、とおり一遍の世俗的な関係であっても困る。妻はあくまで自分と同等のものであり……こちらと水いらずの仲にあるものでなければならない。…… (p.69)
アジア人女性がものすごく好きなフランス人の友人の一人は、アジア人女性好きの理由を、「いつもにこにこしていて、かわいくて、言うことをよく聞いて、やさしいから」と言っていた。アジア人女性をとりたてて好きな人もそんなにいないような気がするので、こちらがレアケースなのかな。上に書いたようなことが主流なのかな。よくわからない。
最後の引用。
愛についてのわたしの考えは幾たびか変遷した。最初わたしは、愛は一つの創造と考え、次いで、それは完全さへの嗜好であると考えた。後に至って今度は逆に、それは一人の女性をあるがままに受けいれること、−真に自分自身であり、若くあることも老いゆくことも共に許されている一人の自由な女性を、受け入れること、そんなふうに考えだした。(p。43)
「一人の女性をあるがままに受けいれること」、というように曖昧なままおわらせるのではなくて、よくわからない「自分らしさ」を前提して無批判に肯定するのではなくて、どのように受け入れるかをもっと真剣に考えることが重要なような気がする。
恋愛論関係の本ってなかなか当たりが出ない。フランスで、リブリオのシリーズ(大体2ユーロ程度)のAmour, désir, jalousieという本を買って積読状態になっているので、暇なときに適当に何フレーズか訳してみようかしら。