私の愛読書の一つに、リルケの『マルテの手記』がある。これはいつも手元においている。ぱらぱらとめくってぼんやりと感慨にふけるのである。異国の地フランス、それも、何も頼るものも友人もいないパリのごみごみとした喧騒の中で、死を意識しながら孤独の中で生きる厳しさをかみしめている青年の備忘録のようなものである。

 全体のトーンは非常に暗い。それゆえ、というべきか、それなのに、というべきか、好きな箇所はいくつもある。そのうちのひとつ、例えば、以下のような部分。リルケの力強さが十分に露わになっている、数少ない箇所である。

 僕はパリに来ている。それを聞くと人々は喜んでくれるし、僕をうらやむ者だってあるに違いない。僕は決してそれを無理だとは言わない。ここは大都会だ。奇妙な誘惑に満ちている。僕はある意味でそれらの誘いに押しつぶされているのを白状しなければならぬ。恥ずかしいが、それはそれに違いないのだ。僕は誘惑に負けている。その結果は僕の性格か、でなければ僕の世界観か、いずれにせよ僕の生活のなかに一種の変化をもたらした。その影響で、僕はすっかりあらゆるものの考え方が一変したのだ。僕にはこれまでの何よりもいっそう険しく僕と周囲の人々とを隔てる壁のようなものができてしまった。すっかり変ってしまった世界。新しい意味を孕む新しい生活。しかしあらゆるものが新しすぎるので、僕は今のところかえって当惑しているのだ。僕は僕の新しい境遇の中で、最初の第一歩から始めねばならぬ。
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 ボードレエルの「死体」という奇態な詩を君は覚えているか。僕は今あれがよくわかるのだ。・・・この恐怖の中に(ただ嫌悪としか見えぬものの中に)あらゆる存在を貫く存在を見ることが、かれにかけられた負託だったのだ。選択も拒否もないのだ。・・・

 僕がパリで幻滅に悲しんでいると思ってもらっては困る。ちょうど僕はその反対だ。いくら醜悪な現実でも、僕は進んで、現実のためだったらすべての夢を葬ることができるのを自分ながら驚いているくらいだ。