靖国神社について

http://seikyusha.bkdb.net/books/ISBN4-7872-3224-X.html

明日のゼミで用いる川村邦光さんの「靖国神社と神社の近代」を読んだ。(論文は『戦死者のゆくえ―語りと表象から』に所収、この本は他にも興味深い論考が収められてある。上記のリンク先参考)。

靖国神社論は結構あるように思えるが、ぼくは坪内祐三の『靖国 (新潮文庫)』しか読んだことがない。ここでは、靖国神社そのものへの考察というよりも、靖国神社が位置する九段においてどのような催し物がなされていたかということを、さまざまな人々の証言を通じて描き、「祝祭空間」として位置づけた。靖国神社は、単に戦没者の祭祀の場とするような言説、往々にしてイデオロギー的側面が付きまとうような言説に捕縛される傾向にある。『靖国』はそこからの解放を問題関心にすえて、そういう傾向を打破しようとした。川村氏は、その意味で、彼の作品を「靖国神社論において新たな局面を「切り開いた著作」として評価する。ただ、坪内氏の主張であるイデオロギー臭を消そうとすることもまた、イデオロギーであると批判し、自身は

靖国神社のおもに"宗教的"側面を批判的に検討するという立場から、靖国神社がどのようにプロセスを経て成立していったのか、その歴史的展開を近代の神社史のなかに位置づけて分析したい(103頁)

と述べ、主に国家の宗教政策の展開のプロセスと、靖国神社に対する「人民の信仰帰依」の程度とその内実の両面から、靖国神社(観)を捉えようとする。

宗教政策において、神道一般と宗教は同じものであると考えられたが、それは皇室神道とは一線を画すものであった。そして「神道の教えは「国家の基軸」【「国家の基軸」とは皇室の祭祀=皇室神道、と筆者は解釈する】たりえないが、儀礼=祭祀は皇室神道を補完し得ると考えられていたことは推測にかたくない」と筆者は言う。続けて、靖国神社皇室神道推進の役割を担わせる政府の意図があったことは否めないが、民衆の信仰については、その神道への信仰というよりも、単なる「非常時」の心の拠り所という程度の信仰であったと述べ、それはまた「神社/宗教の近代の行き着いた果て」と結論付けている。

個人的には、民衆の信仰がどのようなタイプのものであったかとの考察は、論文の前半部分の政策・制度面の緻密な考察に比べると物足りなく、少し論の展開が性急過ぎるように思えた。また、筆者の考える「宗教」という言葉の意味がいまひとつよくわからなかった。


このような論文を書いたりまたはこれを読んだ者は、例えば、「小泉首相靖国神社参拝」への可否に対して、どのような貢献ができるのだろう。いくら「事実」の「正確」な把握をやったところで、「国威」を発揚したいナショナリストは小泉の行動を支持するし自身も参拝するだろう。「良心的」に遺族感情、近隣諸国への配慮を忘れない人は、なにがなんでも参拝に反対を唱えるだろう。「歴史」によって「事実」がわかったところで、それは「正しい」判断のための基準となることとは無縁なのかもしれない。少なくとも「正しさ」に至る道は依然として遠いままのような気がする。誰に対しても妥当な「正しさ」なんてないと言ってしまえばそれまでなのだが・・・。

「歴史」を勉強するぼくが悩む問題の一つはここにある。