二宮宏之『全体を見る眼と歴史家たち』

pp.31-32.

「歴史の過剰が生を阻害する」(ニーチェ)

「矢の束を折るためには、それらをばらばらにしてしまうのが最良の、そして唯一の方法だ。しかし歴史においては、現実をへし折るのが問題なのではない。その現実を生み出した人間、その現実を表現しているテクストをばらばらに解体してしまうのが問題ではないのだ。(…)それらをよみがえらせ、それらに耳を傾け、その意味を解き、それらを再現しなくてはならないのだ。(…)現代の人間は、彼らの学ぼうとする現実を、苦もなく分断してしまう。歴史の現実は果たしてこんな扱いに甘んずるであろうか。歴史家は、現実を全き姿に保つ人間だ。彼はその本質において、過ぎ去りし世界の保存者なのだ。分断してしまって、どうして保てるというのか? (Charles Péguy, Zangwill, dans OEuvres en prose, 1898-1908, Paris, 1959, pp.697-698.)

ペギーはこのように述べて、歴史家たちが細部の考証にとらわれ、ものごとの周辺をうろつくのみで(…)その核心に迫ろうとしないことを、ほとんどいらだちをもって批判したのであった。そして、まさにベルクソンに呼応するかのように、「直感」こそが事物の核心に迫るのに不可欠の方法だと主張するのである。

ヴァレリー「歴史は知性の化学が作り出した最も危険な産物だ」(実証主義歴史家らの科学観を批判)



「それをやらなければ生きてゆけないというテーマを探すのですね」(上原専禄)(p.63)