北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』

 同時代の歌謡曲における「意味論的な破綻」のもつ社会学的意味―それを見据えていたのは、逆説的なことに社会学者である稲葉ではなく、津村のほうであった(…)。身体的パフォーマンスがもたらす意味を考察することなく、ピンク・レディーを語ることはできない。その格率は、マンガのもたらす固有の身体性をそぎ落としてマンガを語ることはできない、というあの倫理と同じ源泉―メディア論的なまなざし―を持っている。(p.94)