cinna85mome2004-06-03


ジョージ・モッセ 宮武美知子 訳『英霊』柏書房 2002 ISBN:4760122176

 人は「戦争」をどのように内面化するか。「戦争」の痛みを人はどのように受けとめるか。そこで構築された「記憶」はどのように後の世代に伝わるか。『英霊』はそのような問いに答える最良の研究書のうちの一つであろう。ドイツを中心に、イギリス、フランス、イタリアにおいて、「戦争」に参加した男性も、参加しなかった女性や子どもも「戦争」を具体的にどのような形で受容したかを、非常に多くの史料をもとに述べる本書は、民衆の視点から「戦争」に付随して起こった文化的な諸現象を広く把握しようと意図しそれに成功しているという意味で、社会史が果たす役割を鮮明に露わにしている。

 取り上げられる「記憶」の媒体は数多いのだが、そのなかでも「映画」、スポーツ、登山について述べられているところを抜き出してみる。

 イギリスとフランスは終戦直後の数年間、ほとんど戦争映画を作らなかった。ハリウッドがそうした映画制作を再開する1920年代半ばになって、やっと戦争映画は人気を取り戻した。一方フランスでは、1928年まで戦争を主題にした映画の需要はなかった。敗戦後のドイツでは戦争映画は全く作られなかったが、その代わり戦争の代役を果たす映画が製作された。前章で論じたいわゆる山岳映画である。純粋さと男らしさの魅力を通じて、敗北の傷が癒されねばならなかった。山や山河の征服【自然の横領】は、道を過つ世界を生きる個人の力を象徴した。力比べとしてのスポーツは、戦争による肉体鍛錬の代用と広くみなされていた。登山もまた、国民的大義に存する身体的優良性の探求を助長した。オイゲン・ヴェーバーは1870年代のフランスで、山が優れたジムの類となっていたと述べる。その斜面や頂に適合した世代は、ドイツに対する復讐に向けて鍛えられた。ドイツでは、1921年の映画雑誌の論評で、その数年間に作られた多くのスポーツ映画を取り上げている。スポーツとしての飛行映画が山岳映画に加わったが、二つはほとんど同じメッセージを持っていた。・・・飛行競技は、人と山との試練に代わる、人間同士の意志の試練であった。だが双方とともに、戦時中に描かれたのと同じヒロイズムと一騎打ちの喜びとであった。あからさまではなかったものの、これらの映画にはナショナリストのメッセージが十分にあきらかだった。強く、男性的で、競争心溢れ、道徳的に清廉な国民が再建されねばならない、と。

 少々長めに引用したが、本書のトーンは大体このように淡々と展開していく。「戦争」で称揚されるような具体的な人間像は、「登山」や「スポーツ」において表象される代表的優良モデルと大して変わらず、それはナショナリストの意図がそこに容易に介入することによって、「戦争」を「記憶」するための手段として奇妙にゆがんだ姿を呈示してしまう。人は無意識の裡に「代替」としての「戦争」にコミットしてしまうと言うのである。

 ヨーロッパ諸国は何度も戦争を繰り返してきたが、第一次大戦はそれまでの歴史の上でもっとも甚大な労力を要した戦争であった。近代という時代は、「戦争」に真摯に「参加」できる「国民」を構築し、「戦争」を死者と死者の数だけ存在する悲劇を、技術の向上の力添えを受けて大量生産する、歴史上最も凄惨な時代である。ここであげたスポーツや登山などの運動や、ほかには「戦地」を「巡礼」する観光旅行、そこで売られる「記念品」(「繁栄する戦場産業」!)は、人が「戦争」の悲劇を乗り越えることができるよう、痛みを慰撫する。

 近代というダイナミズムが(おそらくはその制度の肥大により自己制御できずに)生み出した痛みは、このように和らげられ代替されていく。この過程で形成された「戦争」の「記憶」は真摯な「反省」を喚起することができるのだろうか。「消費」される「記憶」に「戦争」を本気でやめようとする気概がどこまで込められ得るだろうか。戦地観光に参加した同時代人は「今自分たちがどんなに恐ろしい現場を通り過ぎてきたか、彼らのなかのごくわずかしか知らなかった。ハム・サンドを貪り食っているまさにそこがどういう場所か、理解しているものはさらに少なかった」と記録している。「恐怖はすでに麻痺させられていたに違いない」のである。

平凡化の過程は戦争体験の神話を支えた。戦争の現実はまた一つ超克されたが、それは戦争が市民宗教に併合されたからではない。戦争をありふれたものに感じさせ、物品へと引き下げることによってこそ、現実の超克はなされた。そうした物品は、戦いへの好奇心を満足させたいと願う人々によって、日常生活の中で使用されたり愛でられたりして接収された。…戦争を人々の生活の一部にすることで、平凡化の過程が戦争体験の神話に不可欠であると証明された。にもかかわらず、神話自体は市民宗教の基盤として平凡化と対峙した。人々の生活に戦争が存在することで、戦後政治の中に一定の野蛮化が生じた。スポーツ・山登り・体操が終結した戦争の代用物とみなせるならば、政治とは平時における第一次大戦の継続であると言わねばならない。

 確かに、モッセの記述は、スポーツの意義と「戦争」で求められるモデルとを安易に直結させすぎている。また、「戦争」以外の社会経済的なモメントの描写をかなり損ねている印象を受ける。しかし、強靭な肉体と運動能力を賛美するスポーツに熱狂する我々現代人の姿や、痛みをうけとめる「記憶」の形成が、映画や記念品と言った「消費」行為を経て、ポピュラー化・俗化して事の本質に直接に到達することがないということを、より強く認識することの重要性は自覚しておいていいように思う。