cinna85mome2004-05-30


 きょう、午後10時からNHKで「サンデースポーツ」を見た。私にとって非常に興味深い内容が放送されていた。シンクロナイズドスイミングでの振付時の音楽を、「日本」風のものでオリンピックに挑む立花美哉武田美保ペアの予選までの動きを、作曲家が彼女らの監督と議論して、その音楽をつくり上げていく様子とともに追ったものだ。

 その番組の良し悪しはともかく、問題は、その「日本」風の音楽が、鼓(ポンポンという音)と大鼓(おおかわ)(固く高い音、拍子木の音といったら近いでしょうか)に彩られ、「ヨーーー」という合いの手が適度に挿入された、いわゆる「歌舞伎」風の音楽であったということである。シンクロの選手が「日本らしさ」を出すために、「歌舞伎」風の音楽を使うということは、確かに、教科書的で常識的にも妥当である。海外の審判員(多くは欧米人)に、より「日本らしさ」をアピールできるということも理解できる。

 しかし、私は、このように「日本」と「歌舞伎」を交差させるようなやり方というのは、やはりあまりにも安易であるような気がする。「歌舞伎」が「日本」文化であるというのはそのとおりである。しかし、多くの「日本人」にとって、「歌舞伎」というのは、なんとなくイメージとしてはぼんやりと想起できるにせよ、それほど馴染み深いものではない。普通に生活していて、「歌舞伎」にふれる機会はめったにないし、「学校」でその存在を教えられた、もしくは見に連れて行かれた程度で、熱心な愛好者は「日本」に集中しているとはいえ、庶民にも浸透しているとは思えない。「歌舞伎」は、「日本語」で上演され、「日本」で誕生した芸能の一つであるのかもしれないが、「ステレオタイプ」なイメージしか持ち得ないもの、十分な理解がそれほど庶民レベルまで進んでいないものである。つまり、「歌舞伎」は「日本人」にとってまだまだ「他者」であり「異質」なものであると思うし、そのほうが現状に近い。

 そのような性格の「歌舞伎」が、「日本人」のシンクロの選手の振付の音楽に使われるというのは一体何を意味し、何を「外国人」に想像させるだろうか。うわべだけの「エキゾティズム」を再生産させることを結果的に約束していないだろうか。

「日本」らしさを喚起させる際の方法を、「日本人」はまだまだよく考える余地があると、今日のこの番組を見てふと思った。