フランスの「ノン」−ヨーロッパ憲法否決ー

殺戮の帝国に終わりを告げよう。狂信的行為と専制を黙らせよう。[中略]もはや戦争、虐待、殺戮はなくなり、自由な思想、自由貿易、友愛がやってくる。[中略]ヨーロッパにとって、一つのヨーロッパ国籍、一つの政府、一つの巨大な友愛に基づく調停、ヨーロッパと親和的な民主主義、言い換えればヨーロッパ合衆国が必要だということである。(ヴィクトール・ユゴー)


ここでは、「フランス」の利益と「ヨーロッパ」の利益の両立の難しさ、フランス人庶民の意識の上での「ヨーロッパ」の遠さについて書きます。


「ヨーロッパ」というひとつのまとまりによって、そこに住む多様な人々の権利、利益をお互いに認め合い、友愛の情で団結する、その理想は、すでに19世紀中葉に、ひとりの高名なフランス人作家によって、称揚されていた。しかし、それは150年ほどたった今でも、やはり理想に過ぎなかったのであろうか。「共和主義」的価値を標榜し、右翼に左翼にも最も好まれるフランス人作家のうちのひとりは、フランスの共和主義化にその理想を見たが、彼の望んだ統合原理は「ヨーロッパ」という単位でも達成されうる、もしくは達成されなければならないもののであっただろう。

「ヨーロッパ」の利益が「フランス」の利益にもなること。戦後、次第に進展していく統合の流れは、現実的には、おおむねヨーロッパ統合がいかにして「国益」に還元できるかという軸で推移していっただろう。それは、ドイツの政治・経済力向上の牽制でもあったし、これは現在でもそうだが、両国の結束をつうじて「ヨーロッパ」という姿を取りながらじつのところ自国のプレゼンスを国際情勢の中で維持していく、その手段として機能しうるものであった。

シラクも「フランスの未来」は「ヨーロッパの未来」にもかかっていると、その統合の価値を「国益」と結び付けて国民を説得しようとしていた。

しかし、このような説得は庶民には遠かったのかもしれない。たとえば、2002年の春、10カ国加盟決定の年に行なわれたアンケートでは、実に驚くべき結果が出ている。フランスでは、新加盟の国を挙げることのできるかどうかについて、「あげられない」が47%を占めている。「一つ」が19%、「二つ」が13%で、平均国数は1,1国となっている(!)。このようなアンケートを取り上げなくとも、1999年6月に行なわれた、政治的に「ヨーロッパ」として結合すること認める「マーストリヒト条約」においても、欧州議会選挙においても、その低い選挙率は、関心の低さを示している。

EUが「国益」に適うかどうかピンと来ない、これがどうも現実のようである。France3の5月30日夜8時のニュースでは、「ヨーロッパ、どうでもいいわ」と吐き捨てるように言う田舎のマダムや、「フランス人」の失業率がまた増えるといったマドモワゼルムッシューがとりあげられていた。EU統合によって、域内での移動が容易になることによって、安価な労働力が「フランス」にどんどん流入してくるということは、すくなくとも90年代終わりにはもうすでに出てきていた議論であり、いまにはじまったことではない。それが2005年に、70%にもなる投票率によって「ノン」がおおいに宣言されたというのはかなり驚くべきことである。

もちろん、そのような狭量さだけを今回の「ノン」の理由としない主に左派の主張もあったが、それがどこまで庶民に伝わってくるか怪しい。いかに正当な理由で述べても、それは非常に感情的な、「フランス人が損する」という「実感」に結実してしまっているのではないか。反対派の左派はそのような現実を考えた上で、どこまで真剣に主張していたか疑問である。

「フランスのために」が「ヨーロッパのために」と同値になる日というのはものすごく遠いだろう。id:fenestraeさんも猫屋寅八さんも指摘しているように、「フランス」という一国が強いるくびきを解き払える日がいつになればやってくるのだろうか。

この国民投票を受けて内政ではさまざまな動きがあるだろう。しかし、敗北した賛成派は、国民だけを擁護しようとする庶民の狭量さにどのような言い方で、対抗していけばいいのか、考えなくてはならないだろうと思う。


今回のフランスでの「ノン」は、「日本人」が「日本」のためだけに今後行動していってよいのか、「アジア」のために行動するためにどのような言い分が可能かということを問うための重要な教訓でもある。



+上記のユゴーの文章と、文中のアンケート結果は、羽場久み子『拡大ヨーロッパの挑戦―アメリカに並ぶ多元的パワーとなるか (中公新書)』からの引用。