プラトン『国家』

 このような国家においては、必然的に、自由の風潮はすみずみにまで行きわたって、その極限に至らざるをえないのではないかね。……たとえば、父親は子どもに似た人間になるように、また息子たちを恐れるように習慣づけられ、他方、息子は父親に似た人間となり、両親の前に恥じる気持ちも恐れる気持ちももたなくなる。……
 このような状態の中では、先生は生徒を恐れてご機嫌をとり、生徒は先生を軽蔑し、……若者たちは年長者と対等に振舞って、言葉においても行為においても、年長者と張り合い、他方、年長者たちは若者たちに自分を合わせて、面白くない人間だとか、権威主義者だと思われないために、若者たちを真似て機知や冗談でいっぱいの人間にある。……すべてこうしたことが集積された結果としてどのような効果がもたらされるかわかるかね。つまり、国民の魂はすっかり軟らかく敏感になって、ほんのちょってでも抑圧が課せられると、もう腹を立てて我慢ができないようになるのだ……。

十分に吟味され検証されることのない生活は生きるに値しない生活である。


千葉真『デモクラシー (思考のフロンティア)デモクラシー (思考のフロンティア)』、68頁(上)、70頁(下)からの引用。上はプラトンの民主政批判。昔も今も変わらない。「自由がその中に責任感や自制心を失った時に、極端な自由として放縦になり、国民の魂をふやけさせてしまい、悪しき欲望と本来のニーズとの区別を忘却させてしまう」(69頁)例。下は『ソクラテスの弁明』からの引用。