宇野邦一他者論序説 (Le livre de luciole (35))』書肆山田 2000

言葉はうんざりするほどの反復からなり、たえず反復を要求するのだが、反復のなかでかぎりなく襞を増殖してゆくので、必ず不規則で異様な例外を内包し、蓄積していくことになる。それなら一冊の書物は、たとえ一つの言語で書かれているにせよ、その言語自体の内包するあらゆる異質な要素を掘り起こし、世界も宇宙も、そのなかに収めることを夢想することができるだろう.(pp.2-3.)

狂気とは、しばしば自分自身が、自分にとって異質なものになり、不気味なものになってしまうことである。正気とは、異質な者を自分の外にしめだして、自分に親しい世界を仮にでも安定状態として作り出すことである。狂気とは、異質なものとあまりに近くで共生することであり、そのような共生の形態そのものが、一つの社会では異質とみなされるだろう。もちろん一つの社会そのものが全体として狂気に陥ることがあるのはよく知られている。(p.40.)

ヴィクトル・セガーレンは「主体が自分自身を主体とは違うものと認める」ことが、ほとんどエグゾティスムの原理だという(p.29)。意味を正確につかんでいるかどうかあやしいので、おべんきょせにゃ。