手塚治虫

cinna85mome2004-07-10


 以前に課題で書かされたレポートを掲載します。「ありきたり」とも評されかねない「ある視点」から論述してみました。明日から、ヴィザ申請のため東京へ行かなくてはならず、数日間この日記をアップできないので、これを代わりとします。


「〈わたし〉と手塚治虫諸作品にみる『女』」

 小学校時代、私はこれまでの人生のなかで最も多くマンガを読んだ。マンガといっても、それはほとんど手塚治虫の諸作品に限られる。手塚治虫については、いろいろなことが言われているだろう。本レポートを書くに当たって、手塚治虫関連の書物を数冊読んでみたが、マンガというメディアを総体的に捉えることのできるほど、マンガに関する知識も経験もほとんどない私にとって、手塚治虫が、コマやセリフ、表情などさまざまな表現技法において戦後のマンガに多大な影響を及ぼしたと言われても、正直に言ってその偉大さはよくわからなかった。頭では理解できるが、私の手塚治虫の経験はそのようなものではなかった。私に対する手塚の影響、それはもっぱら「異性」、つまり「女」に対するものであったと、今となってはそう思う。手塚は、女を描く際、どのような意を込めていたのだろうか。私が読むことのできた、ほんの少しの手塚治虫関連の論考においては、このことはほとんどふれられていなかった(当然、誰かがこれに関しては述べているだろうが)。このような事情も含めて、ここでは、当時読んでいた手塚作品を中心に、私自身の「反省」の意も込めて、手塚治虫の描いた女性像について考察してみようと思う。もっともそれを分析するのなら、基本的な手順としては年代ごとにその変遷を追っていき、また先行研究をしっかり押さえるというのが正確な論証における筋というものであろう。しかし、そのような正当なことは、正直に言ってほとんどできなかった。もっと丁寧に論じる余地は大いにあるが、私が当時読んでいた作品を元に、そこから抽出できる手塚の女性像の核、と言ってはおおげさだが、少なくともよく見受けられるような、手塚が「女」という存在に託したものをこの小論で描出してみたいと思う。
 まず、「女」の性質を固定化する傾向が見受けられる。その一つの典型として、手塚の作品のなかでも人気の高いもののひとつである『リボンの騎士』が挙げられるだろう。ヒロインの、シルバーランド王国の王女サファイアは、「女」ではあるが、天使のいたずらで、「女の子のこころ」だけではなく「男の子のこころ」をも授かって生まれてしまう。天使のチンクはサファイアから「男のこころ」を抜き取り、「女の子のこころ」だけを残してくるよう天国から言いつけられる。チンクによって一時的に「男の子のこころ」を抜き取られれると、巧みな剣の腕が急に劣ってしまったり、「ぼくは男だっ 女なんかじゃないぞ!!」 と意地を張りその腕前の原因を「男」であることに置こうとする。最後の場面でも「男」のなりをしていたサファイアが実は「女」だということに気づいた女性剣士フリーベが、サファイアとの結婚を取りやめることになる。もっとも物語が下るにしたがって、「男の子のこころ」は離れるのだが、それでも「ぼく」と時に自称するなど若干の乱れはあるが、「女」であるサファイアは、結局は、フランツ=チャーミング王子と結婚してハッピーエンドを迎えるに至るのである。(「もうはなさないよ 長い旅だったねえ サファイア もう 旅はおしまいだ いっしょに帰ろう」「ええ そして あなたと式をあげるわ! ウエディングドレスを着て 女のなりで 宣誓をするわ」 )
 このように性別の区分が作品のなかで所与のものとされており、それに対する疑いが全く示されない。初期の作品の『メトロポリス』でもそうである。人造人間のミッチイは、誕生以来、両性を有しているが、その現れはスイッチによって決められる。つまり、スイッチで「女」に切り替えられると、髪の毛が伸び、スカート、リボンを身に付けるなど変化し、話し方も「…だわ」「…よ」となり穏やかな口調に突然変化する。「男」の時の姿とは相容れない。
そのような外見、性格の分断は『やけっぱちのマリア』にも見られる。巻末の手塚るみ子の解説によると、この作品は『アポロの歌』や『ふしぎなメルモ』と並ぶ『手塚治虫の三大性教育漫画』の一つとされているようだが 、私が実際に中学生の頃に聞かされた性教育の授業をそのまま書き写したような、典型的な性別決定論が展開されている。つまり、「男性ホルモン」や「女性ホルモン」を引き合いに出して、生物学的に男女は根本から違うのだと述べ、それを根拠に「女」は社会的にも「男」とは違っていなければならない、そうでないと「「男」にもてないぞ」と諭されるのである 。
 手塚治虫が「女」の性質を先験的に規定し固定化しようとしているのは、以上より明白であるが、ここまででは単に一般に受け入れられ得る「女」観であり、それを超えるものではない。ここで主張したいのは、手塚は、「女」に何らかの限定的な、特別なイメージを託そうとしていた、ということである。まず、手塚作品の「女」の来歴を検討してみる。
 よくある設定が、中心人物の女性キャラクターを「異界」、もう少し広く定義すると、作品上の「現実」の世界ではない世界からやってくるものとすることである。『やけっぱちのマリア』のマリアは、主人公ヤケッパチから出現した「霊体」であり、現実世界では父の作ったダッチワイフ(!)に乗り移り行動する。それはまた「人間」ではなく「人形」である。『日本発狂』のほとんど唯一の女性登場人物であり、後に主人公イッチの「恋人」となる松本くるみは「死後の世界」からやってきた「幽霊」である。『I.Lアイエル』に登場する、主人に「絶対服従」し何にでも変身可能な特異な能力をもつアイエルもまたその例に洩れない。 主人公はいずれもこの「異界」から来た「女」に魅かれる。「男」は常に現実世界の立場におり、「女」はそれとは正反対の非現実な世界の来歴を背負う。この構図は崩れることはない。そしてまた、「女」は常に「男」のいる現実世界に「男」のために「やってくる」のであり、その(依存)関係は揺るがない。もちろん「霊」を媒介させなくとも、「女」が「異質」な存在として描き上げられている作品もある。それは、「異質」であるがゆえに「美」的でさえある場合もある。
 『アラバスター』の亜美は、「異界」から到来したわけではないが、現実の世界に順応できない悲劇のヒロインである。マッドサイエンティストによって発明された「何でも透明にできる」光線によって、生を受けてずっと、彼女の生身の体は、顔料を付けなければ人の眼にふれることはなく透明なままである(眼だけはそうならない)。やがて彼女は犯罪に手を染めてゆく。透明光線を強く浴び皮膚が透けて醜い姿をさらすことになってしまったもう一人の主人公「アラバスター」は亜美と共謀し、「女」に軽蔑された個人的な恨みを爆発させ、美しいとされるあらゆるものを「醜い姿」に変えるべく「透明光線」を使って世界に復讐を企てる。亜美はその要塞「奇岩城」の「美しい」「女王」である。亜美は、すべての美を引き受ける「女」である。現実に存在する美をすべて破壊しようと目論む「アラバスター」のこのような考えに対して、手塚は批判的に描いている。しかし、「アラバスター」の側からも、現実世界を背負う兄のゲン太の視点からも、亜美は「美しい」存在として描かれている。身体的に不具で現実に適応できず、ちょっとしたきっかけで犯罪に加担し後戻りできなくなる、その不幸な運命によって、「美」は悲劇性の結晶、ヒロイズムの産物として刻印されるのである。
 『奇子(あやこ)』の舞台となる環境もまた非常に残酷である。主人公奇子は、代々続く天外家の家長作右衛門と、その実子市朗の妻すえとの間の「近親相姦」の結果生まれた子である。奇子はある身内の殺人事件の目撃者となってしまい、家の名を汚すことを恐れる家長によって、蔵の中に20年以上幽閉される。年を重ねるごとに奇子は「大人」の体へと成熟していき、だんだんとセクシャルに、艶っぽく描かれてゆく。やがて「近親相姦」の関係に陥る市朗の弟の伺朗の尊大な発言は、「女」を「人間」ではなく、自分の所有する美術品のように扱うかのようである(「奇子に近づくのはおれがゆるさねえ・・・」「奇子にはだれにも触れさせねえよ」「ガラス越しにそっと鑑賞するだけだよ 温室の鉢植のようにな……」 )。このような傲慢さに対して、確かに、手塚は批判的な視点を残している(例えば、姉の志子の発言「ひどい!!なんちゅことをしたのよ あんた」「すぐ出しておやり 天窓から私がおりて―――」 や兄仁朗の発言「おれは鳥かごはきらいだ 一生オリのなかでとべもせず年をくう飼い鳥を見るとおれはたまらんのだ」 など)。しかし、奇子の特異性、非現実性は更正される方向に進まない。「奇子は…急速に少女から成熟した女に変身していった しかしその様は異様であった …なんの損傷も はげしい作業による疲弊もない彼女の肉体は 幼さとひよわさのなかに マネキン人形のような 人間ばなれした清潔さをもっていたのだった」 というト書きにもあるように、奇子は、現実にはありえないような、汚点一つない清純な「女」として具現されている。そして重要なことに、他者、とりわけ「男」とのコミュニケーションにおいて精神的に未発達な奇子の取ろうとする方法は「男」と性交することであった。常識的な行動原則について無知な「女」、奇子は、「男」の性の慰みのために自らすすんで奉仕しようとするのである。社会性の欠如した、自然のまま生きようとする「女」の純粋さは、性欲という「メス」の属性を露わにすることで表象されているのである。仁朗に行為を拒否された奇子は、箱の中に閉じこもりさめざめと涙を流す。
 『アラバスター』や『奇子』ほど作品全体に陰鬱な空気がたちこめていなくとも、手塚の作品には過酷な運命に翻弄される「女」がよく登場する(『リボンの騎士』もそのような作品であろう。意地悪く解釈すれば、現実の過酷さに「女」を放り込んでもてあそぶ手塚のサディスト性が底にあるとも言えるかもしれない)。
 奇子から悲劇性を欠落させれば、『ガラスの城の記録』のヒルンは奇子と瓜二つとなる。ヒルンは20年どころか2000年海底の泥の中の棺桶に眠っていた「女」である。その脳は「まったく麻痺していて…今は赤ん坊ほどの知能しかな」く、その瞳に主人公の「男」一郎は「ゾッとするような冷たさが・・・人間性をまったく失ったものの残忍さが光っている」 のを感じるのである。眼を覚まさせた直後からずっと、ヒルンは一郎の体を求め続ける。自分以外の女性が一郎に近づけば襲いかかる。その激しさは「野獣のメス」「売春婦」そのもの であった。
 奇子ヒルン、そして『人間昆虫記』の十枝子の場合、行動にもっとも活力を感じさせるのは、性行為を含めて「男」と共に行動をしている時である(「むなしいわ…女ひとりでせいいっぱい生きていくのってこんなにむなしいもんかしら…」 )「女」は人間社会の道徳を無視し、自然の摂理に添って生きることができるが、そのようなヴァイタリティ溢れる生は、「男」の存在を身近に感じることを前提とするのである。
 大雑把に見てきたが、手塚作品の「女」のイメージは、あらかじめ決められ固定化されており、「男」とは徹底的に異なる性質を持つものとして性格づけられている。ストーリーの中心的な構図は、現実を背負う「男」、「異質な」非現実的、非社会的存在としての「女」という、二項対立図式である。ここまで検討してきた手塚治虫の諸作品に顕著に見られるこの「女」の異質さは、非現実的で、近寄りがたい。が、同時にそうであるからこそ魅力的で、「男」を不可抗力的に近寄らせてしまう。そのような魔力を持っているのである。それは、「女」に過酷な人生を与え、悲劇性を帯びさせることで増幅され得る。また時に「女」は社会性を剥奪され、性に貪欲な「メス」として生きるよう性格づけされる。「女」の活力、激しさはこのとき生まれ、そしてそれはすべて「男」の存在を前提としている。「女」の美的な生、精力的な生の対岸にはつねに「男」が存在しているのである。このような「女」観は手塚の理想像だったのだろうか。それはもはや知る由もないが、少なくとも、恥を忍んで告白すると、私が最初に「女」に魅かれたのはこのような手塚作品の「女」であったように思う。「女」に異質なものを想像(創造)し、「女」に投影する。そしてそこに「美」を発見し称賛する。しかし、それは「女」を束縛することになっていないだろうか。「男」の想像(妄想)によって「女」は不自由となっていないだろうか。奇子にしろ亜美にしろ、サファイアでさえ、魅力的で艶っぽい。しかし、そのように感じると同時に、「男」は身勝手な「女」観を「女」に対して押しつけているのではないか。今になってもう一度手塚作品を読み直し、このように考え反省している。


<参考文献>
桜井哲夫手塚治虫 時代と切り結ぶ表現者講談社現代新書1990
夏目房之介手塚治虫はどこにいる』ちくま文庫 1995
夏目房之介手塚治虫の冒険 戦後マンガの神々』小学館文庫 1998


手塚治虫 ( )内は初出年
『I.L アイエル』大都社 1987 (1969−70)
奇子 上・下』角川書店 1989 (1972−73)
アラバスター 1巻 2巻』講談社1995 (1970−71)
ガラスの城の記録秋田書店 1994 (1970,72)
『日本発狂』大都社 1987 (1974―75)
『人間昆虫記』秋田書店 1995 (1970−1971)
メトロポリス』角川文庫 1995(1949)
『やけっぱちのマリア』秋田書店 1996 (1970)
リボンの騎士 1巻 2巻』講談社 KCスペシャル 1987 (1953―56)