『ロスト・イン・トランスレーション [DVD]』

cinna85mome2004-06-22


http://www.lit-movie.com/
http://www.lost-in-translation.com/


 前から楽しみにしていた「ロスト・イン・トランスレーション」をついに日曜日に見に行ってきた。少し遅れたけれど簡単なレヴューを書いてみる。(以下、映画の内容をばらしています、注意してください)

 関東では5月のうちから公開していたそうだけど、大阪で始まったのは先週の土曜日くらいからで少し混んでいた。場所は、梅田から徒歩7,8分くらいのスカイビルの中にあるミニシアター系の「シネ・リーブル」。なかなか良い音響と座り心地で、私としては結構気に入っている映画館だ。

 さて、その内容についてなのだが、これが期待どおりなかなか良かった。サントリーのコマーシャルにギャラ200万ドルで出演するために来日した、大物ハリウッド男優のボブ・ハリス(ボブ・マーレー)と、写真家の夫に付き添いでやってきたスカーレット(名字失念)(スカーレット・ヨハンソン)の恋の物語である。

 前評判に何度も言われてきたように、この映画は「日本人」を、「日本」をエキゾティックな存在として捉えていることは否定できないだろう。ハイアットパークホテルに向うタクシーのなかで眠るボブが目を覚ましてふと窓から景色を見る冒頭のシーン。そこは赤や青のけばけばしいネオンの洪水が光り輝いている。観衆、とくに「外国人」には「異」世界にこれから入っていくことを予感させるだろう。ホテルでもボブには驚きの連続である。すべてに「日本」がみなぎっている。時間が来ると自動的にひらくカーテン(夜中にアメリカの家族から送られてくるファックスもそうだが、「異質な」機会音が早朝に鳴り響くシーン)、あまりにも小さい使い捨て髭剃り、LとRの発音ができないホテトル嬢、カメラマン・・・。

 スカーレットも「日本」を奇異な目で見ている。JR渋谷駅前の巨大な広告。鎌倉の簡素な寺、坊主のお経。文化的な差異に驚くばかりの「日本」体験はボブと変わりない。

 このように、二人は「異」国日本で孤独を深めていく。そこには以下のような事情も手伝っている。ボブはボブで家族からの連絡はあるものの、子どもは全然電話口に出てくれず、妻はカーテンの色や息子の誕生日プレゼントの相談ばかりで結婚25年のマンネリが東京にまで届いて退屈さをさらに募らせている。一方、スカーレットの場合、新婚にもかかわらず夫は仕事に奔走してあまり相手にしてもらえない。夫の友人の女優も下品で知性がなく、会話もつまらない。これから夫婦ともに暮らしていけるのかどうか、不安視している。

 ホテルのバーでそんな二人が偶然に出会って、年齢の離れた、肉体関係の伴わない、淡い恋が始まる(最も、それが恋の感情であるというのは最後の別れのときに明確に二人に意識されるのだが)。

 話の筋はこのような二人の関係が中心のテーマで、「日本」、とくに「東京」は二人の孤独感を培養し下支えする背景に過ぎない。スカーレットが日本人男性に、ボブが日本人女性に恋をする素振りは一切見せないのである。ステレオタイプな日本表象を越えるような努力は彼ら「外国人」には一切なされないことを理由に、やはり「日本」は二人の「オリエンタリズム」の対象でしかない、「日本」を偏った視点で蔑視している(悪意なき偏見が「蔑み」に値するかどうかはまた議論のあるところだが)との指摘は論理的にはありうると思う。

 しかし、私はそんな言い草はそれこそもはや退屈だと思う。ポスト・コロニアリズムカルチュラル・スタディーズの流行にのっかって、西洋人の「オリエンタリズム」を看取する論調はもういいかげんうんざりしている。そもそも「オリエンタリズム」という西洋人の東洋表象を問題視するのは、彼らの視点の固定化を批判するためである。「オリエンタリズム」をあげつらう批判の隆盛は、逆に、彼らの「対象」である「東洋」人の、「西洋」人への見方を固定化することに、図らずも貢献しているような気がする。そんなことでは本末転倒である。

 今の世の中は、移動手段の低コスト化などによって人間が驚異的に流動的になった時代である。「西洋人」に限らず誰もが「外国人」となることができる。「オリエンタリズム」のような一元的見方を誰もが自由にできる状況になっている。それゆえに、「外国人」は至るところで発見できる。人種差別に代表される短気な不寛容さを、人類からいかに排除していくことができるか、というのが現代の当面の課題の一つであろう。そしてこのような状況の中で、「家族」や「夫婦」間の関係をいかに維持させてゆくかということを考えることも同時に重要なことである。ボブとスカーレットの関係は、このような重い問いのなかで華々しくきらめく。彼らはこの別れの後、おそらく一生会うことはない。しかし、二人は一生忘れることのない濃密さを一瞬の間体験できたのである。「異国」という状況がこの濃密さを成立させる舞台であるということに、もっと自覚的であるべきだと私は思う。もちろん、「異国」、「異文化」の表象が、今後もステレオタイプの枠からはみ出すことのないような一面的なものであっていいはずがない。しかし、西洋人に限らず世界中のすべての人々が「外国人」になる可能性があるのであり「異国」の受容が固定化、一元化する危険性から免れることはできない。そのことを十分に自覚した上で、「根」の離れた「場」という「異」世界であるからこそ獲得できる親密さに、触れようとする努力は必要であると思う。


+追記+ 監督のソフィア・コッポラという人は本当に音楽のセンスが良い。少なくとも私の趣味にぴったりあっている。最後のシーンで流れるJesus and Mary Chainの「Just like honey」は最高。My Bloody Valentaineにしてもそうだけれど、私が高校生の頃好きだったバンドの音ばかり使われており、前作の「ヴァージン・スーサイズ」同様、要所要所ですばらしい音楽が的確に挿入されいて心地よかった(それでも、作品としても私はやはり前作のほうが好きかも)。日本のバンドからは「はっぴいえんど」の「風をあつめて」が使われている(カラオケのシーンと、スタッフロールで)。「はっぴいえんど」の存在は小山田圭吾(Cornelius)が音楽プロデューサーのブライアン・レイツェルに教えたらしい