はじめまして。

cinna85mome2004-05-23

 24歳の大学院生です。関西の大学に通っています。
 とうとう、日記を公開し始めてしまいました。
前々から日記をつけようと考え、実行したのはいいにしても小学校のとき、親に無理矢理つけさせられたときの記憶が、書き続けているうちに甦り、その強制から逃れられるという「自由」に気づいてそれに飛びつき、1週間足らずで断念することを
くり返していました。
 この「はてな」の日記もその一つになるかもしれません。
 
「持続することがいつか実を結ぶ」、こういうような「人生の教訓」は、あまりにも自分のこれまでの生にはまりすぎている、と自分では思っています。しかし、そのような態度こそが善だという教育にどっぷり身を浸からせていた自分に嫌になるときがあります。それは一体誰のために、何のために、すすんで「先達」のいうことを聞いていたのかという問いを、今まで考えてこなかったからです。つまり、無目的に、無教養に、盲目的に「先達」の言い分を追いかけていた自分に恥ずかしくなるということです。この問いに真剣に向き合っていたとすれば、もうすこし違った人生があったのではないかと想像しています。

「日記を書き続ける」という、よく誰かにやらされる作業も、もはや「大人」の私には「やらされる」ものでは既にありません。「はてな」はそこから離れたルーティンワークです。ルーティンワークに意味をもたせることができるかということが、私の主題です。もう少し詳しく言うと、「ちりも積もれば山となる」ということを、誰かの強制を受けないで、具体的な成果として挙げることができるかということを、「日記」を自発的に書くということを通じて、自分では判断したいと思っています。私は大学院生ですので、日々勉強していますが、そのような積み重ねとは、全く別のルーティンワークによって、自分が向上できるかということを考えてみたいということです。

そのとき、さらに問題となるのは「日記」の「中身」です。高校生や、大学生の2年生くらいまでは、自分の中の「奥深い」ものを言葉に残そうとしていました。それも今となっては、本当に恥ずかしいものです。その当時、自分の書いたものが自分では本当に「深い」ものだと考えていたということも二重に恥です。「死」や「愛」に関して考えることが、自分が「天才」であるという自覚を持つための、最も容易な方法であるということ、その思考の容易であるが故の脆弱性に、気づきもしませんでした。

この回路に嵌まりこまないために、「公開」という方法を今回は選びました。十分にこの回路の存在を自覚していれば、大丈夫だと今回はあえて考えないことにします。いろいろな視点からのご指摘を受けることが、より有益であるということを今回は優先したということです。もちろん、「今日は、マクドに行った」とか、「知り合いの法事に行った」とか、単なるプライヴェートの事実の羅列に「はてな」を供することはしません。何らかの考察を常に加えていきたいと思っています。