再開の偽

cinna85mome0000-04-15

「ブログやってないの?」とよく人に聞かれ、今年の2月の終わりくらいまでいつも「やってないよ」とうそをついていました。知ってる人に見られたらなんとなくいやな感じがしてそれより全然会ったことない人でも、長く読んでもらって培われる親近感のようなものを感じてもらいたかったし、コメントをつける人がいつも知ってるひとで「内輪のり」みたいになってしまったら、夜更けまで好きな音楽かけててきとーに(ほんとに)楽しんでいた3年前くらいの頃と変わってないというふうな発想にとらわれ続け、それでもいいと自己肯定する、爽快な飛躍を自分から欲しないという、禁欲がかっこいいと勘違いする自分にけじめをつけれず、そんなぐるぐるまわる思考の悪循環を断ち切ったのは、結局何も考えずに誘われるがままミクシ登録するということでした。

ミクシは誰が見にくれたかいちいち分ってしまうし、基本的に知り合いばかりで、あれだけ拒否していた「内輪のり」を恥も外聞もなくさらけだしてしまう、幸福なぬるま湯加減を気に入ってないわけではないのだけれど、まあどうせ書くなら全然知らない人が訪れることの機会の多いはてなを使うことの方が、ミクシでよく見に来てくれる人との交流もとぎれないよう、ミクシのシステム上簡単にできてしまうので、こちらにまた書き始めることに決めました。

ちょっと気が引けたのはほぼ1年位前に書いたくだらないことがそのまま残ってしまうということで、それもまたくだらない学校の宿題で書いたものをそのまま載せるという手抜きをして、こんなものかけるんだぜすごいだろ、という幼稚な発想かどうかは今となっては知ることもできないのですが、まあそのような稚拙さとその稚拙さを許容する、寛大と言っては、謹厳実直な人に怒られてしまう、誠実と言っては、寛容な人になだめられてしまうような自分でもよく把握できない心情の動きを、そうすることをやろうともしない堕落さとともども、他人様にみせつけようとする傲慢さがあったことは否定したくてもできないといった方が論理にもかなっているということが本当なのですが、

ともかくいまのぼくは、先月の終わりに当てられた発表をようやく終え、悪い頭でかき集め強引に訳し倒したくだらない仏文にようやく解放されたという一抹の安心感に身をゆだねる自由は少なくとも享受できている、つまり、こういってよければ、その解放感も明日になれば今日指摘された問題点も含めて頭をもたげるのだろうという、予想される恐怖感がないわけではない、今だけの、一瞬の、清澄さと平静さのなかに体をひたらせている、そういう状態にあります。

一応今のところはこんなに長く書かなくとも毎日は日記をつけておきたいと思っていて、今日のような発表の後で、じぶんのおべんきょとは全然関係ないことがそんなに長くとも書けるかなとの心配もあるのですが、そう決意できるのは今だけであるとは心配なく言える今の現状もあるということもあるので、とりあえずそう書いておきます。どうせかいてもけせるんだから、という無責任さがまとわりついているかどうかはおいとくとしても。