「一日二日は我慢できたものの、何日かして雨なぞ降った日には、もう我慢ができない。碁が打ちたくてたまらなくなる。お互いに他の相手ではダメなのだ。二人は碁のヘタさかげんまでちょうどいい相手なのだ。お互いに何とか相手が折れてこないものかとウズウズしている。その心理描写が実におかしい」


最近、月曜日の夜の1時間半は、フランス語学校の翻訳の授業にあてている。上の文章が今日の範囲だった。この文章だけに限らず、仏訳というのは、なかなか手ごわい。和仏辞典をちらちら横目で見ながら書くのだが、当然、日本語の微妙な言い回しや、コンテクストやらを考慮しなくてはならなくて、どうも思い通りに書けない。

受験勉強をやりすぎて悪癖がまだ残っているのか、あまり大きく意味を取り違えないように、文法ミスのないように慎重に書く。これがいけないのだろう。日本語の原文のニュアンスが、訳文の上にのってこないのだ。

他にも、授業中、先生の口から、ぼくが思い浮かばなかった言葉がぼろぼろと出てくる。この言葉だけ見れば意味が分るのだが、フランス語を書こうとするときに、頭に浮かんでこない。


この授業が終わると、毎週、極端に落ち込む。ここ1週間くらい、いろいろとしんどくて、そのこともあって余計に。




最後に、今日聞いたどうでもいいことを書いて終わりにする。このムッシューは大学でも教えているのだけれど、彼の日本人の同僚は、あるフランス語表現でいつも同じ間違いをするらしい。最初気づいたときに言いそびれてしまって、いつ言おうか言おうかと思ってると、しまいには30年経ってしまって、もう言えなくなってしまったという。

日本人の方が、他の場でこの表現を使って、そこで、間違っているよと指摘された場合、何で今まで指摘してくれなかったんだとムッシューは怒られるだろう。で、いまさらムッシューが、「間違ってますよ」と突然注意したら、これまた、何でこれまで黙ってたんだ、ということになるだろう。


こんなことになったら困ることが簡単に予想できるから、文章表現のような、ある程度間違いがはっきりするものであれば、僕はどんどん指摘して欲しいし、ぼくも相手が間違いをしてたら、直してあげたいと思う。

しかし、そうした場合、すぐに、偉そうに言うなとか、揚げ足をとるなとか、そういった類の反応が返ってくる。馬鹿か。

でも、もっと馬鹿なのは、それが馬鹿だとわかっていながら、何か指摘されたときに、こういう幼稚な反応を実際によくしてしまうぼくである。馬鹿か。これだけが、今日書いたことの、唯一の、間違いでないことである。言うまでもない。