星々に向かって哀願を続ける

おととい、修士論文の最終発表があった。今年は10人ほど修論提出者がいるので、発表も2日にわたって行われた。

僕はといえば、一日目の最後だったので、先生方含めて皆さんお疲れのご様子で、しっかり聞いてもらえるかどうか心配だったのだが、有益な指摘を受けることができ、僕のつまらない発表が完全に子守唄になってしまうようなことはなく、当初の心配も結局杞憂に終った。感謝。


「よくまとまってきている」というのは誉め言葉なんだろうか。この語に続けて、ある先生は、〜〜の要素をもう少し入れた方がいいとおっしゃったので、まだ足りない部分があるから不十分だというように、悪く解釈することにする。

別の先生から、「あいかわらず文章が下手」と、あいかわらずいわれてしまった。これは自分でも分っているのだが、面と向かっていわれると、言い返す言葉がなくなる。どう下手なのかもっと教えて欲しい。


ぼくのように違う大学から来た「余所者」の修士論文は、落とされることもしばしばあって、気が抜けない。実際そういう圧迫を感じるのだと言い張るのは、ほとんど被害妄想なのかもしれないが、そう思ってしまうのだから、しかたがない。

早く終って欲しいと思うが、うまく書けるのかどうか不安だ。祈り続けるしかない。


とにもかくにも、発表が終って一息ついたということも事実で、本を買って少し読むことにした。

サン・テグジュペリの『人間の土地 (新潮文庫)』と小谷野敦編『恋愛論アンソロジー―ソクラテスから井上章一まで (中公文庫)』。 人間の土地 (新潮文庫)恋愛論アンソロジー―ソクラテスから井上章一まで (中公文庫)


『人間の土地』でリフレッシュして新たな気分で論文にのぞもう。後者はあえて読まない。

今は論文が恋人であるということにしておく。恋をしている者に、恋愛論は不必要なのだ。恋をすることは、そのまま恋愛論を独自につむぎだすことになっているはずだからだ。論文が終って、つまり恋人と別れたそのときに、この本を読む時がやってくるだろう。




というような発想に違和感を感じないならば、もっと充実した人生を送ることが可能なのかもしれない。