宇多田ヒカルについて

宇多田ヒカルNintendoDSのコマーシャルを見た。びっくりしてしまった。ものすごく「ビッグ」になっている。これはもう太った、とかそういう域ではない。そんな言葉では形容しきれない。「巨大化」である。べつに太ったからと言って、文句をつけようとかもっと瘠せろとか言おうとは思わないのだが、本当に驚いてしまった。もうこれは何の宣伝なのか分らない。やせることを美化する一般の風潮に対する反抗的なプロパガンダなのかと一瞬思ってしまった。そんなことはないんだろうけれど、この喚起力はいったい何なのだろうか。少し確認したところ、あまりこの容姿については評判よくないみたいだけれど、ぼくは100%ヒッキーを支持したい。体をもたれさせられたソファーの、苦しみが十分伝わってくるが、それにもかかわらず、ヒッキーを支持したい。



最近、彼女は全米デヴューしたそうだ。日本で十分「ビッグ」だった彼女は、アメリカでその名を知らしめることにより、さらに「ビッグ」になった。まあ、日本でいくら売れてもむこうでセールスが順調なはずはないから、やはりまだまだ知名度はそれほどでもないのだろうが、少なくとも「アメリカでCD出しました」という、ステータスは日本では十分通用するし、彼女がそうすることには皆納得するだろう。

でも、体まで「ビッグ」になる必要があったのだろうか。アメリカで「ビッグ」にまだなれていないから、体だけでも「ビッグ」に・・・という彼女のひたむきさがそうさせたのだろうか。好感度アップの作戦なのかもしれないな。いや、こういうのは常識的に過ぎる発想だ。



昔、吉田英作が日本での俳優業を停止し、アメリカでの役者デヴューを図り、皿洗いから、一から出直すとか何とか言っていたが、そのときに彼が残したもう一つの台詞が、たしか「絶対ジャンボになってやる」だった。これは「ビッグ」を「ジャンボ」と言い間違えた彼の天然さが十分に表現されたものとして、半ば嘲笑、半ば同情されて、人々に受け入れられたが、彼はさすがに「ジャンボ」どころか「ビッグ」にもなれなかった(むしろやせこけて帰国)。


ところが、ヒッキーは「ビッグ」どころか「ジャンボ」に、いとも簡単そうにやってのけるのである。この思いは、このCMをみて一瞬何のコマーシャルかわからないという感想をもつ人になら少なくとも、共有してもらえるだろう。知らず知らずのうちに任天堂の意図を換骨奪胎してしまう、彼女の存在とそのインパクトは、英作とはもう全然格が違うのだ(ヒッキーは吉田英作に引導を渡したのかもしれない)。知名度のうえではたしかに、彼女はまだまだ「ビッグ」ではないだろう。それでも体だけは、という意気込みには、頭が下がるおもいである。さっき「支持したい」などと偉そうなことを書いたが、もうひれ伏すしかないのかもしれない。プロとはこういうものなんだろうな、とプロの世界の厳しさを思い知らされた。さらに、一般のヤセ尊重傾向への批判を軽やかにその「ジャンボ」な体に刷り込ませる自然さ(これについては何の根拠もないので僕の妄想の一つ)は、それを自らの好感度アップとしても機能させているという面においても、自曲である「automatic」を髣髴とさせる。本当のプロはすべての挙動に、自然に「自動的に」人々を喚起する。なすがままに、自立的に、意味を増殖させ人々を圧倒する。