la naïveté

6時起床。食パンを買い忘れていたことに気づき朝からうんざりする。ワイドショーは今日は見ずおべんきょ。昼から、フランス文学のクラスである、サンピエリ先生のConversationに参加させてもらう。言っていることはまあ7割5分くらいはわかるのだが、質問をふられてもなかなか言葉が出てこない。まだまだだなあとうんざりする。今度からはもっと積極的に話していかないと。めんどくさい。本読んでるほうがおもしろいし、会話なんてつまらないのはわかりきったことなのだが、しかたない。授業が終わって眼鏡を買いに行く。5月1日にできるらしい。

近所の、非常に居心地の良い、5年以上利用しているモスバーガーに行く。横で座っている男子2人の会話を盗み聞きした。どうも一人がもう片方にバイトでうまく仕事ができなくて店長にいつも怒られる、と悩みを打ち明けていて、「いやーまだはじめてやろ、仕方ないで」とか「おれだったら、〜する」とかなんとか言っていて、横で聞いていた僕は「何を偉そうなこと言ってんねん」とか思ってしまった。それは彼らが高校生か大学入りたてか、若輩な連中だったということもあるのだが、それくらいで「偉そう」という非常に表面的な感想を抱いてしまうのはどうしたものだろうか。


人をそういうほとんど暴力的な突飛さで判断してしまうことは恥ずかしながらよくある。それは感覚的に瞬時に頭に浮かぶ発想なので仕方ないといえば仕方ないことなのかもしれない。で、ぼくはそういう表面的な印象を単に印象として頭の片隅においておいて、話だけは正確に聴こうとする努力をしようと思っているのだが、「片隅に置く」ことってほんとにうまくできるのかなと思う。そういうような他愛ない印象が、話を正確に聞こうという努力を失わせていることがよくある気がする。そういう印象に抗って本当に相手の気持ちを「理解」することは可能なのだろうか。

そんなことを言いつつも、ぼくは自分の話を全然聞こうとしてくれない人に対して、苛立ちを感じることはほんとによくある。外見とか、話し口調とか「空気」とか「雰囲気」で、そういう表面的な要素で、人の話を正確に聞いてくれない人はほんとによくいる。何か言えば「現実はそうじゃない」とか「世の中そんなに甘くない」とか「屁理屈だ」と、彼らは言う。僕の言うことは「偉そう」らしい。「他人」との「距離」は果てしなく遠い。そういう悔しさをずっと抱えているにもかかわらず、ぼくは今日もまた、人のことを「偉そう」などと表面的な感想を抱く。それを頭の「片隅に置く」ことの難しさに思い悩む。


ぼくもここで日記などという名目で「偉そう」なことをのたまっている。ここでもまた十分「偉そう」にふるまっている。ぼくの文章はそのように消費されているんだと思う。たぶん僕の言うことは「偉そう」とか「生意気」とかまあ、そんなようにしてさらりと受け流されているんだろう。そういう感想を抱かせずに、抱かせても頭の「片隅に置」かせつつ正確に聞き取ってもらうにはどうすればいいんだろう。

それはこの文章が悪文ということも大いにある。だいたいそんなに長い時間をかけるわけにいかない。そんな暇もない。後から読み返してこれはちょっと読みにくいと自分でもよく思う。でも、ぼくが推敲に推敲を重ねて良い文章を書いたとすれば僕の言うことは良く通じるようになるんだろうか。それに費やした時間は実りあるものと思えるだろうか。どこまでぼくが正確に伝えようとすれば、相手にどこまで正確に伝わるんだろうか。かというぼくも「他人」のことを本当に理解しようとしているんだろうか。できているんだろうか。


厳然として在るどうしようもない距離感。それを克服することはどうすれば可能になるんだろう。