『エレファント』

エレファント デラックス版 [DVD]

『エレファント』を観た。『グッド・ウィル・ハンティング』とか『誘う女』などで有名なガス・ヴァン・サント監督の作品。役者はほとんどが現役の高校生でみなオーディションを受けて初めての映画出演。台詞も、監督のキーワード指定のほかはすべてがアドリブ。1時間30分くらいだが、ほとんど長回しでアングルが変わらないカットで構成されているため、眠くなる人もいたようだ(他の人のはてなダイアリーの感想による)。

監督自身もそう語っているように、この作品は1999年のコロンバイン高校の、生徒による銃撃「テロ」に触発されたものだが、同様にそれを素材にした著名なだれかさんの「ボーリング・コロンバイン」とはまったく質が異なる。後者はそれにいたるまでの社会背景を描きながら、政府批判と社会批判につなげているが、本作ではそういう意味での政治的意図はないだろう。

力点はむしろ高校生の平和な日常が一瞬にして崩れ去る点である。「あんたは車の運転が下手」「友達と恋人どっちが大事なの」などといって口論を始める3人組の女生徒。「グレイトなコントラストだ」と言って、ともだちの写真をほめる一写真部員。こういう日常は事件によって終焉する。そのあっけなさは執拗にふつうさを追おうとするカメラの助けを得て獲得される。

犯人はどう表現されているだろう。これもまた非常に平坦である。つまり決定的な何事かがあって、「事件」に至るようには描かれていない。いじめをうける一生徒が、学校内の非常に簡単な調査でその見取り図を得た後、後ろから人を銃で撃つビデオゲームを好む(後頭部を背後から追っかけるカット多数)、弟か同じ部屋で寝食する同僚とともに、ネットで仕入れた銃を手に、犯行にいたる。べつにそうすることが批判的に描かれているのではない。おかれた重点は、かれらの「普通」さである。

ゲームとネットの浸透という社会的インフラに疑義を発し、人に恐怖感を煽るメディアとはちがったやりかたで作品を作ろうとする意図は十分に伝わる。「こんなにめでたくいやな日はない」と射殺しつつひとりごつ犯人に「殺人=悪」という常識的準拠枠は消えていない。ゲームをやるように「普通」に殺人を楽しむ気持ちもそこには同居しているのだが。

一般メディアは、ゲーム感覚で人殺しをするようになる一高校生を生んでしまった社会背景を批判する傾向にあるが、問題はそういうところにあるというよりもむしろ、人を殺すということがいかにドラマティックでないかということにある。殺人なんか「普通」の人はしないと答えるのでなくむしろ、殺人というのは「普通」にできてしまうものなんだ、ということを強調すべきである。この生徒は「普通」に社会の影響を受けているのである。「こんなにめでたく・・・」という台詞は、人を殺す場面ではあまりにドラマに欠ける。殺人のシーン以外で出てきても何もおかしくない。人を殺すことを「悪」と呼んだり、絶対にしてはいけないんだということを言うためには、「悪」を誘う「普通」さを凝視する姿勢を、まず持つべきなのだろう。メディアが「殺人=悪」を言いたいんであれば、この作品のような報道をするべきなのである(具体的にはどうすればいいんだろうか思い浮かばない、ぼくも考えないといけないのかもしれない)。「悪」に対抗するためには、常識的でない、例外としての犯人像を捉えようとするのではなく、徹底的に「悪」を凡庸化する、つまり殺人にいたる犯人と同じ心情をわれわれも共有することを自覚することが必要なのだと思う。「あいつは変わったやつだ」などという言明は絶対にするべきではないのだ。

そういうような考えからこの作品が撮られた、犯人を「特別」な存在としてその動機の究明に腐心する通常メディアにたいするアンチテーゼとして撮られたのだと思うが、うがってみれば、この映画はそのためのものなんだろうなあというくらいのことは観る前からわかることであり、観終わった後もそういう構図でとられていたなとの感想を抱いた。その意味で、予想は裏切られず物足りなさは感じた。

銃声が全然恐怖感を誘わないのは見事だと思った。このゲームみたいな音はどうやってだしたんだろうか。